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「般若心経は唱えてはいけない」は本当?危険・怖い・夜・神社の噂を僧侶がすべて解説

この記事の監修:恒純(こうじゅん)。高野山真言宗の僧侶。訪問供養を専門とし、弁財天をご本尊とする祈りの庵、金光明庵の庵主を務めています。僧侶として、目に見えない世界を心から信じ、数えきれない体験を重ね、霊にまつわるご相談も数多く解決してまいりました。その立場から、きれいごとではなく、本当のところをお話しします。

般若心経を調べていて、こんな言葉に出会い、不安になっていませんか。

「般若心経は唱えてはいけない」 「唱えると危険、霊を呼ぶ、やばい」 「夜や丑三つ時に唱えてはいけない」 「神社では唱えてはいけない」

この問いには、二つの面から、正直にお答えしなければなりません。ひとつは、世間に広まった噂の多くが、行きすぎた脚色だということ。一般の人は唱えてはいけない、夜は危ない、といった話は、いたずらに人を怖がらせるもので、案ずるにはおよびません。けれど、もうひとつ、目をそむけてはならない面があります。目に見えない世界は、実際にあります。そして、それは時に、おそろしいものでもあるのです。

この記事では、世間の噂の行きすぎは正したうえで、霊の世界の本当のところも、ごまかさずにお話しします。そして最後に、いちばん大切なこと、では何が私たちを本当に護ってくれるのかを、お伝えします。

目次

なぜ「唱えてはいけない」と言われるのか。表向きの理由

まず、わかりやすい理由から。ひとつは響きです。般若心経の最後は「羯諦羯諦(ぎゃーていぎゃーてい)」という、聞きなれない真言で結ばれ、意味を知らないと呪文のように聞こえます。ふたつめは文字。「無」という字が何度も続くため、意味を知ると怖い、と感じる方がいます。みっつめはインターネットで、刺激的な切り口の記事や動画が、それを大きく広げました。

ここまでは、お経そのものの危険性ではなく、見かけの印象と後世の脚色です。けれども、「怖い」と言われる理由は、じつはこれだけではありません。もう少し奥に、目に見えない世界の、本当の事情があります。

ちょっと不思議な話。「怖い」と言われる、本当のわけ

ここからは、一般には信じがたいお話かもしれません。少し不思議なお話として、興味を持って聞いていただければと思います。

般若心経のような、力のあるお経をとなえると、目に見えない世界が、たしかに動きます。ひとつには、成仏したいと願う霊が、その光に引かれて寄ってくる、ということがあります。お経の力にすがって、救われたいと願うのです。

また一方で、この世への執着に狂ってしまったような霊は、お経を聞くと、まるで説教をされているように感じて、かえって怒り出すことすらあります。そうした目に見えないものの動きによって、霊的な影響を受けてしまう方が、現実にいらっしゃるのです。私はこれまで、そうしたご相談を数多くお受けし、解決のお手伝いをしてまいりました。

「般若心経は唱えてはいけない、怖い」という話が広まった奥には、こうした、目に見えない世界の本当の動きがあるのだろうと思います。ですから私は、その怖さを、頭から迷信だと笑い飛ばすことはいたしません。霊の世界は実際にあり、ときにおそろしいものでもある。それは、正直に申し上げておきます。

ただし、これは本当に特別なお話です。どうか、目に見えない不思議な世界のお話として、そっと胸におさめておいてください。そして、ここからが肝心です。その見えない世界に対して、私たちは、どう身を護ればよいのか。それは、この記事の終わりにお伝えします。まずは、世間に広まった噂の行きすぎを、一つずつ正していきましょう。

それでも、いたずらに恐れる必要はありません

霊の世界が実際にあると申し上げると、かえって不安になる方がいるかもしれません。けれど、どうか落ち着いてください。日々、心を込めて般若心経をとなえる、ふつうの方が、影響を受けてしまうことは、めったにありません。般若心経は、もともと、迷える霊を鎮め、となえる人を護るためのお経だからです。世間の噂の多くは、ごく特別なことを、あたかも誰にでも起こる危険のように大げさに語ったものです。次の一つひとつを見れば、安心していただけるはずです。

一般の人は唱えてはいけない?

これは誤解です。般若心経を唱えてよいのは僧侶だけ、という決まりはありません。年齢も、信仰の有無も問いません。古くから、もっとも多くの人に親しまれ、写経でも読経でも、広く一般の方が手にしてきたお経です。お寺の写経会の手本も、たいていは般若心経です。安心して、声に出してください。

唱えると霊を呼ぶ、危険?

先ほどお話ししたとおり、力あるお経をとなえれば、見えない世界は動きます。けれども、ここをはきちがえないでください。般若心経は、霊を呼んで人を害するためのお経ではありません。その正反対です。迷い、救いを求める霊を鎮め、安らぎへと導き、となえる人を護る。これが、般若心経の本来の働きです。寄ってくる霊があるとすれば、それは害をなすためではなく、その光に救われたいからなのです。ですから、お経は、危険の側ではなく、救いと護りの側に立っています。ふつうに、心を込めてとなえる人にとって、般若心経は盾であり、灯りです。

夜や丑三つ時に唱えてはいけない?

となえる時間に、よい悪いはありません。朝でも昼でも、夜でも、心がざわついたそのときに唱えてかまいません。「夜は霊界が開く」という話は、仏教の教えにもとづくものではありません。むしろ、心細い夜にこそ、静かにとなえれば、その護りがあなたを包みます。ひとつだけ、夜の大きな声はご近所のさまたげになりますので、声をひそめてとなえる心づかいを。これは霊の話ではなく、暮らしの上の思いやりです。

神社で唱えてはいけない?

これは、ていねいな説明が必要です。結論から申せば、一律に「いけない」ということではありません。

日本では長いあいだ、神と仏を一つに敬う神仏習合(しんぶつしゅうごう)の世が続き、神社で読経することは、ごくふつうのことでした。とりわけ、仏さまや仏法を護る神さまをまつる社では、般若心経をとなえることは、今もなお正式の祈りとして受け継がれています。たとえば、弘法大師空海に高野山を授けた女神をまつる丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)は、高野山の総鎮守であり、真言密教の守護神です。この社では、今日も僧侶が御社の前で読経を欠かさず、楼門の下で般若心経をとなえる姿が見られます。また、空海が高野山を開く折に密教守護のためまつった三宝荒神(さんぼうこうじん)をいただく荒神社でも、般若心経をとなえるのが古くからの作法です。三宝荒神は、仏・法・僧の三宝を護る神さまだからです。

一方で、明治以降、純粋に神道の場として歩んできた神社も数多くあります。そうした社では、大きな声で仏教のお経をとなえるのは、その場にそぐわず、参拝の方の妨げにもなりかねません。危ないからではなく、場を敬う心づかいの問題です。迷うときは、神社では神道の作法で静かに手を合わせ、般若心経はお寺やご自宅でとなえる。そう心得ておけば、間違いはありません。

意味を知ると怖い?

「無」がたたみかけるように続くので、虚無的で怖いと感じる方がいます。けれど、この「無」が指すのは「何もない」ではなく、「固定された、変わらない実体がない」ということ。すべては移り変わる、だからこそ私たちは変わっていける、という希望の教えです。怖がる必要はありません。空のくわしいお話は、別記事「般若心経とは」をご覧ください。

唱えてはいけない宗派はある?

般若心経を用いない宗派はあります。浄土真宗と日蓮宗です。けれど、これは禁止ではなく、それぞれが念仏「南無阿弥陀仏」、題目「南無妙法蓮華経」を信仰の中心とするためです。私たち真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、浄土宗などでは、般若心経を広くとなえています。

では、霊的なものから、本当に身を護るには

ここまで読んで、こう思われたかもしれません。では、般若心経をとなえれば、それで護られるのか、と。じつは、ここが、この記事でいちばんお伝えしたいことです。

正直に申し上げます。お経を、お守りのように口先でとなえるだけでは、本当の意味で身を護ることはできません。ほんとうに私たちを護るのは、お経の文句そのものではなく、その教えを生きることです。すなわち、仏道を歩むこと。仏教を、日々に実践していくことです。

その実践とは、観自在菩薩も歩まれた、六波羅蜜(ろくはらみつ)にほかなりません。惜しみなく与え(布施)、正しく生き(持戒)、耐えしのび(忍辱)、たゆまず努め(精進)、心を静め(禅定)、ものごとをありのままに見ぬく智慧を磨く(般若)。この六つを、暮らしのなかで積み重ねていく。すると、その人の心には、おのずと智慧と慈悲の光が満ちていきます。

考えてみてください。迷える霊や、暗いものにつけ込まれるのは、こちらの心に、同じ執着や、恐れや、迷いがあるときです。与える心、穏やかな心、とらわれのない心で日々を生きる人には、暗いものは寄りつく足場を失います。心が智慧と慈悲の光で満ちていれば、闇は、もう入り込めないのです。仏道を歩むこと、仏教を実践していくこと。それこそが、霊的なものから身を護る、いちばん確かで、いちばん強い力なのです。

般若心経をとなえることは、その道へ入る、尊い入り口です。けれど、入り口で立ち止まってはいけません。となえることを糸口に、与え、戒を保ち、心を磨いていく。お経と実践が一つになったとき、あなたは、何ものにもおびやかされない、ほんとうの護りを身につけるのです。これこそが、般若心経が、私たちに教えてくれている、いちばん大切なことです。

よくある質問

お守り代わりに、書いて持っていてもよいですか。

たいへんよいことです。古くから、写経した般若心経をお守りとして身につけ、護りとした方は数えきれません。玄奘三蔵が、般若心経を旅のお守りとして死の砂漠を越えたと伝えられるのも、その心と同じです。

亡くなった人のために、となえてもよいですか。

ぜひ、となえてください。般若心経は、亡き方の安らぎを祈り、迷える霊を鎮める供養のお経です。仏壇やお墓の前で心を込めてとなえれば、あなたの祈りは、必ず故人に届きます。夜にお仏壇の前でとなえても、何の問題もありません。

霊的なことで、強い不安を感じています。どうすればよいですか。

まずは、日々の暮らしを、与えること、穏やかであること、正しくあることでととのえてください。それが何よりの護りです。そのうえで、一人で抱え込まず、信頼できるお寺や僧侶にご相談ください。金光明庵でも、お話をうかがっています。

子どもや妊婦がとなえても、大丈夫ですか。

まったく問題ありません。むしろ、護りのお経です。お子さんと声を合わせるのも、よいひとときになるでしょう。

庵主・恒純より

私は僧侶として、目に見えない世界を、確かにあるものとして見てまいりました。ですから、その怖さを、ないものとして語ることはできません。けれど、同じだけ確かに申し上げられるのは、その闇に勝つ光が、私たちの側にも必ずあるということです。

その光とは、与える心であり、穏やかな心であり、とらわれを手放した、澄んだ心です。お経をとなえ、そして仏の道を一歩ずつ歩むこと。それを続ける人を、暗いものがおびやかすことはできません。どうか、噂に振り回されて怖がるのでもなく、見えない世界を侮るのでもなく、まっすぐに、仏道を歩んでください。それが、あなたを護る、いちばんの力になります。

おわりに

「般若心経は唱えてはいけない」という噂には、行きすぎた脚色と、目に見えない世界の本当の事情とが、入りまじっています。けれど、おそれることはありません。般若心経は、となえる人を護るお経であり、そして何より、その教えを生きること、六波羅蜜を実践し仏道を歩むことこそが、霊的なものから身を護る、いちばん確かな力です。

般若心経そのものの意味や全文、現代語訳、玄奘三蔵の物語をくわしく知りたい方は、別記事「般若心経とは」を、はじめ方を知りたい方は写経の記事を、あわせてご覧ください。金光明庵は、弁財天をご本尊とし、人々の祈りと願いを仏さまへお届けする庵です。どんな小さな不安でも、迷ったときはどうぞお声をおかけください。

合掌

※本記事は一般的な見解を示しているものです。実際には、各宗派や各寺院によってそれぞれ違いがあります。また、口伝といって、お師匠様から直接教わっていることがあり、ここで紹介したものと異なる場合があります。しかしながら、それらのどれも間違っているということではありません。本記事は、学術的な見解を示すものでも、修行者に向けて専門的な情報を提供するものでもありません。あくまで、これから仏事にふれる一般の方が、安心して手を合わせられるよう、わかりやすさを第一にまとめたものです。

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